お母さんの誕生日
こんばんは、tocoです。久しぶりのブログになりました。
今日は母の誕生日です。もうそんな歳なんだと思っていてけれど、私が31になるからそりゃ歳もとるはなと。今日は少し母とのことを書いてみようと思います。
私の名前、とうこは母が女の子ができたら、呼んでみたいと願っていた名前でした。予定日が3月3日だったので、桃子と書いてとうこと呼ぼうと思っていたらしいのですが、予定日より早く産まれ、とうこと読む漢字を職人の親戚のおじさんが瞳子はどうだと考えてくれて、母も気に入り瞳子という名前になりました。中学生くらいまでは、名前に子がつくのが嫌な時期もありましたが、高校や大人になってから素敵な名前だねとか、お顔通りの名前だねと褒めてもらえることが増えて、自分でも好きになりました。今では自分の名前が好きでこの名前をつけてくれたことに感謝しています。
母は京友禅の彩色の職人でした。保育園は工房と言ってもマンションの一室ですが、そこに近い保育園に預けられ、終わったら工房でほぼ一人遊びをしながら帰宅時間まで待っていました。幼少期から工房で働いている母や他の職人さんの仕事を見てきたので、幼き頃ってなんでも真似したくなっちゃうじゃないですか?なので私がしていた一人遊びはもっぱら塗り絵でした。何冊も遊んだ気がします。着物の模様に似たものをしたかったので選ぶのはキャラクターで選ぶというよりかは、女の子がいろんなファッションをしているようなもので、細かい模様などを好んでしていていたなと覚えています。
保育園の時から本当に可愛い服ばかりきさせてもらってました。いつも先生に褒めてもらい、長かった髪もいつも可愛くアレンジしてもらってました。編み物を趣味としていた頃があり、その時に編んだ手編みのカーディガンは今でも残っています。なので保育園に行くときはいつも楽しく行っていたように思います。
私が小学校に上がるタイミングで家で仕事をするようになり、その年の秋には弟も産まれました。小学校の頃から私は手がかかったと思います。小学3年生くらいの頃学校に行けない時期がありました。ご飯も食べられませんでした。不調が続き病院に行くと過呼吸があり、自律神経失調症と言われました。先生は、感受性が強いためだろうと話をしたみたいです。今思うと小さな時からそうだったんだなと思います。給食の時間に流れるトトロの音楽になぜか涙が出て、給食が食べられずよく残されていたなんてこともありました。それからの学校での生活は普通で活発に遊んで、よく食べよく成長し中学に上がることが出来ました。
中学校、高校は吹奏楽部に入って毎日部活に励んでいました。クラリネットだったのですが、おねだりして高い楽器も買ってもらいました。大学まで寄り添うとは思っても見なかったですが。笑
その他も備品や遠征費などお金もたくさんかかったし、何より送り迎えをよくしてもらっていました。何一つ文句も言わず、夜遅くなっても早朝でも送り迎えしてくれたこと、今でも感謝しています。音大に入ることを決めたときもやりたいことをやらしてくれて、お金も祖父に頼んだりしてくれてました。
その頃からです。母をもっと苦しめてしまうことになったのは。私はパニック障害になってしまいました。高校3年生の電車の中で初めておきました。それから電車に乗ることが出来ず、心療内科も通い、母の時間をたくさん奪ってしまいました。音大も1年生でやめ、療養生活をしていました。それから月日が経つにつれて症状もマシになっていき、外で仕事ができるほどに回復しました。でも長くは続きませんでした。4年ほど働いて、店長を任されたりしていた頃からまた不調が出ました。あまりに休むことが多くなって仕事も辞めざるを得なくなりました。そこからは最悪の日々でした。自傷行為が止まらず、薬漬けになり、精神病院の隔離病棟で入院するほどまで堕ちました。その頃はよく母を泣かしてしまっていて、血だらけの腕を見て泣き崩れた母を見て私も泣いていた夜は脳裏に鮮明に焼きついています。
退院してからも不調は続きましたが、だんだん時間が経つにつれ内職をしたりして、心療内科も高校からかかっていたところに戻し、少しずつ良くなって行き、今に繋がります。今も治らず心療内科にかかりながら、薬も飲みながら生活しています。
そんな私が去年結婚しました。母は喜んでいてくれて、安心してくれていました。私もよかったねと言ってもらえて嬉しかった。新婚生活も一年が過ぎ、色んなことがありましたがなんとかやっていけています。大丈夫だよと行動で見せるのが一番安心してもらえると思い、日々生活しています。結婚して瞳子は強くなったねと言ってもらえたときは泣いてしまいました。ずっと弱かった自分が一番認めてほしい母にそう言ってもらえてことが、本当に嬉しかったのです。ひとえに旦那さんのおかげなのです。旦那さんにも感謝でいっぱいです。
今でも毎日電話で話したり、週末は旦那さんが仕事が遅いので実家に帰っていてほしいと言われたときは実家に帰って顔をあわしています。なんか私の経歴を振り返ったみたいになってしまいましたが、母には昔も今も感謝しきれないほど感謝しています。今年は祖母が亡くなった事もあり、サポートできることは全力で母の役に立ちたいと頑張って、最後看取る事もできました。
本当に今も昔もどんだけ喧嘩をしても母が大好きで、少しでも役に立ちたくて、少しでも安心して欲しくて。結婚してからでも相変わらず親離れできずにいる私ですが、できる限りのことを精一杯して、少しづつ前に進み、旦那さんと一緒に頑張りながら、母が産んでくれた自分を大切にしながら生きて生きたいと思っています。
お母さん、誕生日おめでとう。私を産んでくれて、私のお母さんでいてくれてありがとう。
大好きだよ、これからもまだまだな私だけどよろしくお願いします。仲良くしてね。
長くなりましたが、読んでくれた方駄文でしたがありがとうございました。
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